BOXING

【黄金のミドル】石の拳(Hands of Stone)ロベルト・デュラン④(Roberto Duran)
WBC世界ジュニアミドル級タイトル挑戦!
ウィルフレド・ベニテス戦 1982.01.30

ロベルト・デュラン①

ロベルト・デュラン➁レナード戦Ⅰ

ロベルト・デュラン③レナード戦Ⅱ

黄金のミドル(中量級)とは?

1980年代のプロボクシングは、ウエルター級からミドル級の中量級のクラスに華のあるスーパースターが勢ぞろい、
その中心選手たちが1980年代を通し、リーグ戦のように対戦し、それぞれがビッグファイトとして世界中から大注目され大いに盛り上がった時代となっていました。
1970年代の人気の中心は、モハメド・アリのいたヘビー級、
そのアリが70年代後半に王座を陥落した以降、アリの王座を継いだラリー・ホームズに人気が無かったこともあり、時代は一気に「黄金のミドル(中量級)」に移行していきました。

その「黄金のミドル」時代を支えたビッグ4と称されるスーパースターが、
■ロベルト・デュラン
■トーマス・ハーンズ
■シュガー・レイ・レナード
■マービン・ハグラー
の4人です。
この4者4様、素晴らしい特徴を持つ4人が合いまみれ、80年代のプロボクシング界を席巻していきました。

ロベルト・デュラン(Roberto Duran)は1951年6月生まれ、パナマ出身。
1968年に16歳でプロデビュー、1972年WBA世界ライト級タイトルを獲得して以来1978年1月まで12回防衛(11KO)、次々と相手をKOする野性的なパンチは「石の拳(Hands of Stone)」と称され、ライト級では怪物的な強さを発揮、
12回めの防衛戦でWBCタイトルを統一、ライト級最強のまま王座を返上しウエルター級に転向、
黄金のミドルの覇権争いに参入し、ビッグファイトを多数展開、
ライト・ウエルター・ジュニアミドル・ミドルの4階級を制覇、通算戦績119戦103勝(70KO)16敗。

シュガー・レイ・レナード戦

ライト級のタイトルを返上したロベルト・デュランは、ウエルター級に転向しランキング1位に昇り、WBC王者のシュガー・レイ・レナードに挑戦、
1980.6.20、3-0の判定でタイトルを奪取し2階級制覇を達成、
王者になったデュランは、5か月後、
1980.11.25にレナードと再戦、8Rデュランの試合放棄でTKO負けし王座陥落、
王座陥落の夜、引退を宣言したデュランであったが、3日後には「レナードにリベンジする!」と引退宣言を撤回。

WBCジュニアミドル級タイトル挑戦!1982.1.30

レナード戦の試合放棄でデュランの信用は失墜、国民的英雄とし誇りにしていたパナマ国民を失望させてしまった。レナードに勝利した時に制定されたパナマの祝日「デュランの日」も廃止に至る。
しかし、デュランが再び世界戦のリングに戻ると、中南米のファンは、デュランの野性的な強打での圧勝を期待、チャンピオンの技術がデュランを上回ると予想したのは少数でした!

17歳6カ月でジュニアウエルター(今のスーパーライト)級の世界チャンピオンになったウイルフレド・ベニテスは、ウエルター・ジュニアミドル(スーパーウェルター)と23歳で3階級を制覇し、天才と称されるテクニシャン、

この対戦は、「調教師vs猛獣」「技術vs石の拳」、タイプの違う2人の激突として注目されます。
試合展開は、
ベニテスは、序盤から、切れの良い右をボディ、顔面にヒットさせ、デュランの反撃からは素早く逃れる、
その後も的確なパンチを浴びせ、5Rにはデュランをグラつかせるような強烈な右ストレートも命中、
対して、デュランの石の拳は機能せずにベニテスを捉えられない、
ベニテスのペースで試合が進み、7Rにはデュランの左まぶたが切れ、終盤にはベニテスのまぶたも切れることになったが、一度もダウンシーンを見ることなく試合は終了。デュランのパンチはベニテスに封じ込められたが、ベニテスからも決定打が出ることがなかった。

判定は「143-142」「145-141」「144-141」と3-0でベニテスの勝利、
試合後、デュランも自ら完敗を認めていました。
ボクシングファンも、23歳の4階級制覇を目指す男と30歳の往年の最強ボクサーの対決の内容に不満は無かった。

ウイルフレド・ベニテス(早熟の天才・ボクシングの教科書)

デュランとの「調教師vs猛獣」対決に勝利したウイルフレド・ベニテスは、17歳6か月という史上最年少でWBCジュニアウェルターの世界タイトルを獲得し、「早熟の天才」「バイブル・オブ・ボクシング(ボクシングの教科書)」と称されるテクニシャン、幼い時から父親に厳しく指導されてきた反動で、「練習嫌い」「遊び人」としても知られています。
「黄金のミドル」世代との対戦では、レナードに敗れ、デュランに判定勝ち、ハーンズに判定負け、
ハグラ-との対戦はありませんでした。
敢えて「たら・・・、れば・・・、」の話しをしますが、
もし、ハグラーと戦い、テクニックを駆使して勝っていたら・・・・!
もしくは、レナードと再戦し、リベンジを果たしていれば・・・・!
黄金のミドルの主人公の一人として、「ビッグ・ファイブ」と呼ばれていたかもしれません。

残念ながら、主人公になる事は実現せず、歴史的には準主役として、数々のビッグファイトに出演、
そして、かつての天才の「練習嫌い」があだとなり、パンチを喰らいすぎた結果、晩年は重度のパンチドランカーの症状に悩まされ、家族に介護され静かに暮らしているそうです。

ウイルフレド・ベニテス(1958.9月生)通算戦績:62戦53勝(31KO)8敗1分
【略歴】
1973年11月(15歳)、プロデビュー。
1976年3月、WBA世界ジュニアウェルター(今のスーパーライト)級タイトルマッチでアントニオ・セルバンテスに15R判定勝ちで王座を獲得し、17歳6か月で史上最年少世界王者。2回防衛成功の後に返上。
※アントニオ・セルバンテスは、WBA世界ジュニアウェルター王座を2期合計15回防衛のレジェンド。
1979年1月、WBC世界ウェルター級タイトルに挑戦、カルロス・パロミノに判定勝ちし2階級制覇。
1979年11月、2度目の防衛戦でシュガー・レイ・レナードに15RTKO負けし、王座陥落。
※プロデビュー後の初黒星。
1981年5月、WBC世界ジュニアミドル(スーパーウェルター)級タイトルに挑戦、モーリス・ホープに12RKO勝ちし、3階級制覇に成功。
1982年1月、ロベルト・デュランに15R判定勝ちで2度目の防衛成功。
1982年12月、トーマス・ハーンズとの3度目の防衛戦で15R判定負けし王座陥落。
1990年9月、最後の試合を判定負けし引退。

デュランのこの後は?

この試合の後のデュランは、
1982.9.4の再起戦で、10R判定負け(ノンタイトル戦)。
1982.11.12再々起戦、10R判定勝ち(ノンタイトル戦)、
この次の試合(1983.1.29)で、元WBAウェルター級王者のホセ・ピピノ・クエバスと戦います。

次回の投稿で・・・

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